最近私のまわりでは、老親の葬儀に向けて何を考えたらいい?という相談が急速に増えました。
親がだんだん弱ってきた。
もう長くないとお医者さんに言われた。
今のうちにできることは何か。
現在私は還暦を超えて少し。特に同世代の友人知人関係だとちょうどそういうお年ごろですし、
自治体や市民講座でしばしば終活講座を担当し、お話しさせてもらうので、そういう話が寄ってくるのでしょう。
でも「終活」とは葬儀だけではありませんし、元気なうちに考えることは、現実味を帯びているときとは、少し事情が変わります。
正直なところを言うと、どのように送るかは、その人(と親御さん)の価値観や人生観、家族関係などによってずいぶん変わってくると思います。
だから、「○○をした方がいい」という正解はありません。
しかも、だんだん親の死が近づいている、というときは、何より残された最後の時間を大切にしてほしいと思うので、ますます他人が何を言えるだろうかと悩ましく思います。
それでも、いろんな人のお話を聞いていて「本当にそれでいいの?」と思うことは少なくありません。
彼ら、彼女らは、
老親と離れて暮らしている。
お墓参りなんてほとんど行ったことがない。
宗教心はない。お寺とのおつきあいも、長いことない。
「どうせ家族だけで送るのだから何もしなくていい」などと言います。
話を聞いているなかで私が改めて思うのは、
人の生死に関わる機会や、自分ごととして考える機会が、今は本当に少なくなったんだなあということ。
ひと昔前だったら人のお葬式に行くたびに「うちの場合はどうしようかな」と考えることもあっただろうに、そういう機会が激減していることも影響しているでしょう。
親はだんだん歳をとり、いずれ亡くなることはわかっていたはずなのだけど、その時のことを、子どもも親もあまり考えないまま時間が過ぎていく。親子のあいだで話をしている人も、本当に少ないのですね。
あくまでも私の考えですが、
親が「亡くなるまでのカウントダウンの時間」や、「お別れの儀式(葬儀)から火葬するまでの時間」は、死生観やその後の人生観に大きな影響を与えると私は考えています。
昔だったら家族や親戚の人数も多いし、親に限らず近しい人の「死」や「お別れ」の場に立ち会う機会は多かったんです。そこでいろんなことを感じたり考えたりする場があり、それを繰り返す中で、わざわざ言葉にしなくても、その家の、あるいは自分なりの死生観が育てられたと思うのです。
でも今、そういう機会が本当に減ってしまいました。
本来、人の生死を考える機会は大事な「教育機会」だと私は考えています。それは自分への教育でもあるし、子どもへの教育も。
「命」について考え、故人との関係性を見直し、家族の在り方を考え、自身の死生観が育てられ、心が鍛えられるはずだと。
しかも親の死は、家族(や近い親戚)が揃う大事な機会でもあります。この機会を逃したら、もしかしたらここまでの顔ぶれはそうそうそろわないかもしれない。
終活も介護も、昔はそういう機会の中でいろいろ感じたり学んだりして、心が鍛えられ、自らの死生観も作っていったはずが、今はそういう機会自体がなくなっているように思うのです。
私も昨年、父を送りました。
91歳でした。父の兄弟姉妹も高齢でしたし、コロナ禍で緊急事態宣言発令中でしたし、葬儀は家族だけ、お通夜なしの一日葬で送りました。
昔から見れば「簡単な」形です。親も私も信心深くないし、お寺とのお付き合いも薄い一般的な家族です。
それでも、父を送るときは家族が無理せず全員出席できるような日を設定しました。葬儀は、亡くなった日の1週間も後でした。
遺体を安置した場所には何度でも顔を見に行けたので、安置期間中は私たち子どもが行ったり、母を連れて行ったり…。母はそのたびに何度も手を握り、手を合わせていました。
特にコロナで、母は父との面会がままならなかったので、そこは大事にしたいと思いました。
葬儀は、孫(両親にとっての孫)にきちんと人の死を見せる、という経験も大事にしたいと思いました。「触ってごらん」と言うと、小学生の姪は最初は怖がっていましたが、そのうちそっと触るようになり、撫でながら「冷たい」「おじいちゃま、寒くないかな」と言い、最後は父のまわりにいっぱいお花を入れました。きっと大事な思い出になったと思います。将来の彼女の死生観を育てていく機会にもなることでしょう。
そういう形で送るのも、父が亡くなる前から考えていたわけではありません。亡くなってから、ゆっくり時間をかけて私たちが考えたのです。
親を送る方法の正解はないけれど、お別れは大事な時間、大事な機会。やり直しはできないので、その意味を考えながら、確認しながら、どのように進めたらいいのかを考えていければと思います。
そういうことなしに、ただ「簡単に」「何もしない」という方向に進んでいく今の時代は、少々寂しい気がしてなりません。
葬儀など、お別れのしかたに向けて、極端にネガティブなイメージに引っ張られてしまったり、周りへの影響まで想像できなかったりすることが気がかりです。
そんな今の時代に、子どもとして考えておくべきことは何でしょうね?
もし病院や施設で見送るなら、亡くなったらどこに連れて行くのか、自宅に帰るのか、を考えておくことくらいでしょうか。あとはせいぜい現金を用意しておくくらい。
亡くなった後のことは、カウントダウンが始まったときに何かしようとしても、それはもう付け焼刃。送り方はそれまでの関係性や時間の中で育まれるべきことなんです。
火葬するまでのことは、葬儀屋さんさえ決まれば、あとは葬儀屋さんがいろいろ取り計らってくれます。葬儀をしてもしなくても。葬儀をしないから葬儀屋さんは不要と思っている人もいますが、ご遺体を運んだり、ドライアイスが必要だったりするので、葬儀屋さんの手は必要です。
相続はそういうことが終わった後の話。
無駄に見えがちな昔からのしきたりや習慣というのも、それなりに意味があります。単に否定するのではなく、その意味をふまえた上で、旅立つ親は何を望むのか、親を思う人たちは何を望むのかを考えながら、今の時代にどう対応させるのか、というように考えていければいいのに、と思います。
最後にお寺との関係について、ひとこと。
お寺にお墓がある人、すなわち檀家さんになっている家であるにもかかわらず、亡くなったことをお寺さんに連絡しようとしない人が増えています。が、そこには注意が必要です。
多くは今までお墓参りにはほとんど行っていない人、お寺さんとのおつきあいはほぼない人で、お寺さんの価値や意味をよく理解していません。でもそのお墓に納骨するのを当然と思っていて、そこに何の疑問も問題も感じていません。これが大問題。
お寺にお墓があるということは、ご先祖様の供養をお寺にお願いしていることになります。
もし家の人が亡くなったら、葬儀にはお寺のお坊さんにおつとめしてもらう、すなちお経をあげてもらうのが当然の流れ。だから訃報の連絡をしないということは、今までご先祖を供養し守ってきてくれたお寺をないがしろにする行為そのものになってしまうのです。
知らないことで大きなトラブルになったり、納骨できなくなってしまうことも。
通常は葬儀屋さんがお寺に連絡するよう促すことによって、ギリギリでトラブルが回避されていることも多いのではないでしょうか。
お寺との関係をどうするのかは、これまでのおつきあいをふりかえり、今後のお墓をどうするのかにも関わります。だから一人では決められず、一朝一夕に解決できることではないのが難しいところです。