いきなり尾籠な話で恐縮ですが、
ここ数年で、私は和式のトイレを使うことがほぼなくなりました。
自宅はもちろん和式じゃないし、
どこに出かけても和式のトイレを見かける機会が減ってきたし、
仮に見かけたとしても、できる限り選ばなくなってきたからです。
それは「楽だから」。
ところが最近仕事でよく行く場所のトイレが和式しかなかったので久しぶりに和式を使いました。
そうしたら、使用後に立ち上がる時の負荷があまりに大きくて、
我ながらびっくりしてしまったのです。
たしかに最近の私は、駅の階段の上り下りが以前よりもしんどくなってきていて、
足腰が弱ってきているのを感じてはいます。
それはもちろん十分自覚していたことではありましたが、
まさかトイレの立ち上がりが大変になるとは思いもせず、自分の予想以上の衰えに驚いてしまったのでした。
「トイレは和式でないと踏ん張れない」
そう言って、同居していた祖父は亡くなる78歳まで、
同居していた祖母もくも膜下出血で倒れる87歳まで、
頑なに洋式のトイレを拒否し、和式のトイレを使用していました。
我が家でそのトイレは、祖父母だけが使ういわばプライベートトイレ。
今思うと驚きですか、30年前の高齢者は概ねそんなものだったような気がします。
ということは、今私がかなり負担を感じている“立ち上がり”を、
30年前の高齢者は毎日何回も経験していたわけですね。
当時の私は20代だったので、特に不思議に思いませんでしたが、今の私から見ると尊敬です。
私たちは新しい商品で「楽する」ことを選び、覚えていくうちに、
知らぬ間にどんどん体を弱らせているのですね。
人はきっと普通にしていれば、無意識に「楽になる」方向に向かって行きます。
ましてや私のような怠け者は、積極的に「楽になる」方向を選んでいきます。
トイレは和式に、
階段よりもエスカレータに、エレベータに、
電車に乗って空席があれば座り、
駅から距離があればタクシーに乗り…と。
でもそれが、自分を弱る方向へと導いていることを改めて知り、
いざ測ってみたら、私の筋肉量は平均よりもずっと少ないし、
体脂肪率は驚くほど高い。
驚愕してしまうのです。
「楽になる」ための商品が増えることは、
もしかしたら高齢者の介護問題の深刻さを押し進めているのかもしれません。
そう思うと、何とも皮肉なことですね。
私のまわりの怠け者じゃない同世代は、
日常的な行動に意識して負荷をかけたり、積極的に鍛えたりしています。
しかもそういうことを好んでされている方も少なくなくて、
それはすばらしいとは思うのだけれど、私にはなかなかそれはできません。
人間だもの、ついつい面倒、わかっていてもなかなかできない…。
とは言え、「まずい。私、弱ってきている」と感じることは、
目に見えないものに脅されているような、叱られているような強迫観念になって、
今、私に襲いかかってきています。
和式トイレを使用したことが、怠け者の私を思わぬ危機感へと駆り立ててくれたようです。